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藤子・F・不二雄のSF短編『気楽に殺ろうよ』は、私たちが「当たり前」と思っている感覚をそっくり裏返して見せる作品です。タイトルからして物騒ですが、読んでいてまず驚くのは物語の運びがやけに理屈っぽく、しかも筋が通って聞こえてくることでしょう。笑っているうちに足もとがぐらつくような一篇です。
この記事では、基本情報とあらすじを紹介し、そのあとに感想をまとめます。結末に触れる部分は、見出しで段階的に分けてあります。作中には、殺人や、赤ん坊を捨てる場面が出てきます。苦手な方はご注意ください。
『気楽に殺ろうよ』の作品データ
- 作者:藤子・F・不二雄(発表当時は「藤子不二雄」名義)
- 初出:『ビッグコミック』(小学館)1972年5月10日号
- 形式:読切のSF短編(ブラックユーモア)
- 主な収録:『藤子・F・不二雄SF短編〈PERFECT版〉』第1集、『SF短編コンプリート・ワークス』第1巻、『藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編』第1巻、小学館文庫『異色短編集』など
あらすじ(ネタバレなし)
月曜日の朝。会社員の河口は、いつもどおりに起きて顔を洗い、玄関の新聞を取ろうとしました。その瞬間、背中に刃物を突き立てられたような激痛が走ります。発作は5分ほどでおさまりましたが、このあたりから周りの様子がどうもおかしい。
朝食の席では妻がカーテンを閉め、明かりまで消してしまいます。休みのはずの日曜日が、いつの間にか月曜日にずれている。娘の絵本には、大人向けの場面が平然と描かれている。河口は「自分は頭がおかしくなったのではないか」と不安になり、精神科の医者を訪ねます。
ネタバレありの展開(結末の手前まで)
※ここから先は中盤の展開に触れます。未読の方は、次の「読んだ感想」まで読み飛ばしても構いません。
診察室で河口が打ち明けた「おかしなこと」は、ほかにもあります。駅のホームでは学生服のカップルが自分の赤ん坊をゴミ箱に投げ込み、その場で次の子づくりを始めようとしました。友人が妻に出刃包丁で惨殺されたのにまわりの誰も驚きません。さらに、家には見知らぬ男が訪ねてきて「殺人の権利書を百万円で譲ってほしい」と頼みこんできたのです。
医者は少しも動じません。この世界では、食欲は自分ひとりのための独りよがりな欲求だから人前でするのは恥ずかしい。一方で性欲は子孫を残すという社会に役立つ欲求だから堂々としてよいというのです。しかも、子供を一人つくれば、人を一人殺せる「権利書」がもらえてその権利は売り買いもできる。いままでの常識・倫理観では考えられないことも医者の説明はあまりに筋道が立っているので、河口は「妄想に取りつかれていたのは自分のほうだった」と納得し、安心して家へ帰ります。
【さらにネタバレ】結末について
※結末に触れます。初めて読む楽しみを残したい方は「読んだ感想」まで飛ばしてください。
その晩、河口は同僚の海野が自分を殺そうとしているという話を耳にします。この世界では殺人は珍しいことではありません。それなら殺される前に殺してしまえばいい。河口はそう決意し、翌朝、刃物を持って家を出ます。
玄関では、妻が弁当を持って呼び止めます。けれど河口は、その声に気づかないまま会社へと歩いていきます。この場面は、冒頭で河口が妻に朝食を催促し、真っ赤な顔で叱られた場面とちょうど対になっています。世界はいつの間にか元に戻ったのか、あるいは別の何かなのか。作中でははっきりした説明はありません。
読んだ感想:いちばん怖いのは医者の説明に納得してしまうこと
📌 逆転した世界の「理屈」がよくできている
食欲は自分のため、性欲は種のため。だから恥ずかしいのは食欲のほう。現実の私たちの感覚とは逆です。それでも、理屈としては筋が通っている。この「もっともらしさ」こそが作品の仕掛けの核でしょう。
📌 河口があっさり順応してしまう
河口は最初こそ混乱しますが、医者に説明されるとわりとすぐ納得します。そして、その世界のルールに従って殺意まで固めてしまう。ここがいちばんぞくりとするところです。「常識」はどれほど危ういものの上に乗っているのか。読みながら自分の足もとを確かめたくなります。
📌 ラストの「お弁当」の一言
冒頭と結末の妻とのやりとりが対になっているのが見事です。ほんの短い台詞なのに世界のルールが変わったことがはっきり伝わってきます。それなのに河口本人だけが気づいていない。読者だけが状況を知っているという立場に置かれるのでページをめくる手が止まりません。
📌 同じテーマの作品と、読み比べたい
価値観の違いを真正面から扱った作品として、『ミノタウロスの皿』が思い浮かびます。同じ第1集には『わが子・スーパーマン』や『自分会議』など「正しさ」や「自分」を疑う作品が並んでいます。読み進めるほど、作者が一貫して「当たり前」を疑い続けていたことがわかります。
📌 短いページ数とは思えない読みごたえ
ページ数は多くありませんが、発端、世界の説明、転落までの流れが無駄なく詰まっています。ブラックユーモアが好きな方はもちろん、普段、藤子・F・不二雄といえば『ドラえもん』という方にもぜひ手に取ってほしい一篇です。
『気楽に殺ろうよ』が読める本
『気楽に殺ろうよ』は、藤子・F・不二雄のSF短編を集めたシリーズで読めます。選びやすいのは、次の2種類でしょう。
- 『藤子・F・不二雄SF短編〈PERFECT版〉(1) ミノタウロスの皿』:本作は第11話です。『わが子・スーパーマン』『アチタが見える』『換身』など、初期の代表作が発表順に並んでいます
- 『藤子・F・不二雄SF短編コンプリート・ワークス』第1巻『ミノタウロスの皿』:『ミノタウロスの皿』『自分会議』なども入った、B6判のシリーズです。
藤子・F・不二雄SF短編<PERFECT版>(1)ミノタウロスの皿 【電子書籍】[ 藤子・F・不二雄 ] 価格:1320円 |
『気楽に殺ろうよ』【まとめ】
『気楽に殺ろうよ』は、食欲と性欲、そして殺人の扱いを裏返すことで「常識」のもろさを見せつける短編です。突飛な設定なのに、理屈だけは妙に整っている。その居心地の悪さが読み終えたあとも長く残ります。
逆転した価値観を受け入れて殺人まで決意する河口の、まわりに流される「芯の無さ」に人の危うさを見て取れる気がします。ぜひ確かめてみてください。
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